3.11

昨日は3月11日、3.11だった。あの日から5年経った。新聞もテレビ番組も、いたる所で3.11を取り上げていた。昨日書く方がタイミング的によかったのだろうけれど、今日書こうと思い立った。だから今日書く。

長文で、地震当時のレポートみたいになっていて、読む人によってはつらいかもしれない。

 

あの日、私は学校の最上階の音楽室にいた。合唱際が近く、練習もラストスパートの時期だった。ソプラノもアルトもテナーもバスも、全てのパートが指揮者とピアノ伴奏に合わせて、残された時間を使って、猛練習してた時だった。

その時だった。

地震だ」

クラスメイトの誰かが言った。確かに揺れている。その時はまだ、「東日本大震災」と思っていなかった。時々ある、ちょっとした地震。すぐ収まる。そう思っていた。

しかし揺れは止まらない。むしろ大きくなる。女子達がキャーキャー言ってしゃがみ込んだ。男子達は近くのアルミの棚(楽譜とか入っていた)を押さえる。私は、どうしていいかわからず、周りの女子達のようにしゃがんだ。地面がぐるぐるまわっているように感じた。一瞬止まってまたまわりだす地面。怖いと思いながら、「あの天井が落ちてきたら死ぬのだろうか。それともこの床が落ちるのか。死ぬ感じってどんなだろうか」と考えていた。妙に冷静になっていた気がする。

揺れが収まる。もう練習どころではない。なんだかよくわからないまま教室へ戻る。周りの子や先生のことばから、なんとなく状況を把握する。

なんだかよくわからないまま帰ることになった。帰りのバスに運良く乗れた。しかし信号は赤も青もついていない。

家に着く。家の中は無事だった。皿が割れていたりはしていない。しかし停電していた。母と妹がいた。母にメール見たかと言われて、はじめて母のメールの存在に気付く。あの瞬間、母は妹の学校の保護者会に行っていて、妹は家で留守番していた。あの瞬間、隣や近所の人たちが妹に声をかけてくれたらしい。怖くなって靴も履かずに出てきた妹に気付いた隣のおばさんが、コートと靴をとってくるように声をかけてくれたらしいと、母から聞いた。あの瞬間おばさんがいなかったら、たぶん妹はパニック状態だっただろう。

暗い台所で、ろうそくをつけて、ガスと水は止まっていなかったので、鍋でご飯を炊いて、夕飯を食べた。ラジオを聴いた。内容はもうほとんど覚えていない。

しばらくして電気がついた。不安だったので、いつまた地震がきても逃げられるように、パジャマでなく、私服で寝た。その後、母の提案により、翌日の服を、何かあった時に、すぐに持っていけるように、風呂敷に包むようになった。

たぶん、地震の被害をちゃんと知ったのは、翌日になってからだったと思う。どのチャンネルも地震の様子を写していて、CMはACばかり。津波の様子、原発の情報。不安に不安が増すようなできごとが立て続けに起こっている状況に、ただ呆然とするしかなかった。

 

いろいろあって後、そのままいつのまにか5年が経った。

多くの些細なことは忘れる程の時間の経過。それでも、深い爪痕は残っている。原発はまだ解決したわけではなく、被災地は、テレビや新聞等を見る限り、まだ荒れ地のようになっている所も多いようだ。

5年経った今でも、当時のことをここまで覚えているとは。

忘れてはならない。3月11日がくる度にそう思うからかもしれない。

いつか、ボランティアだか何だか、目的は定かではないが、福島などの被災地へ行きたい。自己満足、何を今さら、偽善かと、思う人もいるかもしれない。しかし私は、行って、現地がどうなっているかを、テレビや新聞といったメディアではなく、肌で感じたい。実際に見ないとわからないもの・ことがきっとあると思うから。

忘れてはならない。これからも、ずっと。