夏の夜、バンパネラは

ある夏の夜のことだ。ひとりの少女が高い建物の屋根のてっぺんにいる。その建物は十字架があるので、教会だろうか。

少女の頭上には満月が、金色に輝いている。少女の髪も金色で、月の光によりきらきらとさせている。

少女は、屋根から下の景色を見ていた。マンションの窓から漏れる光、車や街灯の光、救急車のサイレンの音、どこかの駅のアナウンス、その中に紛れる人々、蝉の声。

ふと少女は呟いた。「喉が渇いた。...血でも飲むか」そして屋根から身を投げる。落ちた方を見ると、もう彼女の姿はない。1匹の黒いコウモリが、あてもなさそうに飛んでいる。

彼女はバンパネラである。実際にはバンパイアというが、どこかで聞いたことのあるバンパネラという言葉の方が響きが好きなので、彼女は名乗るとき、そう言っている。

 

ひとりの男が、海岸にいる。空には星が2、3個と満月があるのみ。

彼はただ波の音を聴いている。寄せては返す波の音を。

さく、と人の気配がした。男が振り向くと、そこにはひとりの少女がいる。少女は黒いワンピースを着ている。肌は陶器のように白い。風のために、金髪がなびく。

「こんばんわ」と男がいう。

「こんばんわ」と少女が返す。不思議な笑みを湛えて。

少女が「ここで何をしているんだ」と聞く。

「波の音を聞いていたんだ」と男が答える。「君は」

「ただの散歩だ」

話しながら、少女が波の方を見る。寄せては返す波。白いしぶきをあげている。あたりは暗く、黒い。

「波の音。久々に聞いた」と少女がつぶやく。

「彼女が、海が好きだったんだ」男が話す。過去の出来事。少女は静かに聞いている。赤い両眼を男に向けて。「けど、彼女は病で死んじまった。いまだに、忘れられない。もう何年も経つってのにさ」

少女は長々と続く昔話に小さくため息をついた。そして、

「人間というのは、つくづく面倒な生き物だ」少女がぽつりと言う。少女がそのようなことを言うので、男は怪訝そうな顔をする。

「まるで人じゃないみたいなこと言うんだな」

「人ではないからな」

「じゃあ、何なんだ君は」男は冗談だろと言いたげな顔をしている。少女はクククと気味の悪い笑いをした後、答える。

バンパネラだ」

 

男は目を丸くする。言葉が見つからないのか、視線を左右に揺らす。そして、「バンパネラ」と言う。まるで、訳が分からないというように。

「やはり、バンパイアと言った方が、わかりやすいか」と少女が言う。笑顔だが、その口元には、異常に大きな犬歯が2本ある。少女のルビーのように赤い目が妖しく光る。男の脳裏に、逃げなくてはという考えが浮かぶ。しかし、なぜだろう。身動きが取れない。

少女が男の肩に手をかける。少女が静かに言う。

「貴様の血をよこせ」男が拒否を示すように、「離せ」と言うが、それに気を留めずに続けて言う。「何、一口だけだ。貴様の命に支障はない」

その声は歌うように、また艶っぽく、男の耳に届いた。男は徐々に抵抗の姿勢を緩める。そして、がくりと倒れる。男の全体重が、少女の華奢な体にのしかかる。

少女は男の首筋を指でなぞる。そして、男の首に歯をたてた。

 

どのくらいの時間が経っただろうか。少女が、男の首元から離れた。どさり、と男は砂浜に倒れこむ。息はしている。首には2つ、小さな傷がついた。

少女はその隣で座り込む。その顔は興奮で紅潮している。容赦なく高鳴る心臓の音を感じつつ、「...うまい」とささやく。

もっと味わいたい。もっと欲しい。甘く、芳醇なこの血を。

しかし、それは許されない。血は一口いただければ十分。それ以上は求めてはならない。己の欲望に負けて必要以上の血を飲んだら最後、ただのコウモリになってしまう。

「一口いただくことはできた。もういらない」

自分にそう言い聞かせ、少女は名残惜しそうに男から離れる。口についた血を拭いながら。

そして再びコウモリの姿になり、あてもなく飛んで行った。

 

ある夏の夜のことだ。ひとりの少女が高い建物の屋根のてっぺんにいる。今宵はある駅ビルの屋上のようだ。

風が強い。彼女の髪は、荒れ狂う雷のように宙を舞う。

「今日はどうしようか。人間でも観察してるか」

彼女は、どこかで聴いた歌を口ずさむ。

そうして、はるか下の人間たちの様子を見ていた。